かの有名な、クメールルージュ(ポルポト)による大虐殺です。
カンボジア各地にはクメールルージュ時代に虐殺に使用された施設がいくつも残っていて、当時のことを学べる博物館・資料館としてオープンしています。
この記事では、僕が首都プノンペンにある施設を訪れた時に感じことと学びについて共有したいと思います。事実関係については、施設でうけた説明をもとに記載をしています。
【本記事の内容】
- クメールルージュの大虐殺を振り返る
- 首都プノンペンにある2つの施設へ訪問
- 学び:情報を見極める大切さ
※訪問:2019年2月
※未解明のことも多く、数値などは諸説ありです
【カンボジアの歴史】悲惨な大虐殺を振り返る
- 1975年4月17日〜1979年1月7日
- 4年弱で国民の約25%(170〜190万人)が殺された
- 当時の政権(クメールルージュ)による、虐殺
隣国で起きたベトナム戦争の影響をうけ、国内が混乱状態に陥ったなかで政権を握った共産主義党クメール・ルージュ、また党首であるポルポトという人物は、農業中心の国づくりを始めました。
ポルポトにとって不要とされた知識人は片っぱしから収容所に送られ、強制労働をさせられ、最後は無理やり罪にかけられて殺されました。
医者や教師、公務員などの人たちは問答無用で知識人の対象として扱われましたが、そのほかにも以下のような理由だけで、連行の対象になったそうです。しかも家族ごと。
- 都会に住んでいる
- メガネをかけている
- 自営業を営んでいる
2019年2月8日時点で、当時使われていた収容所は343箇所がみつかっています。まだ全容は不明で、今だに新しい収容所が発見されていますし、既に水没してしまった場所もあるようです。
首都プノンペンにある2つの施設へ行く
トゥールスレン虐殺博物館
- もともとはプノンペン郊外にあった高校
- 12,000〜20,000人が監禁された
- 確認された生存者は、わずか12人
壁にかけられている施設発見時の写真や、建物の至るところに残る血跡、収容者をしばるベットなどから、拷問の悲惨さがひしひしと感じられます。
かつての学生の遊び場は拷問場所となり、収容者を吊るして暴行を加え、気を失うと排泄物が溜まった壺に顔を突っ込み、気を取りもどすとまた暴行。
その後独房に入れられ、何ら関係のないスパイ容疑などの罪を問われ処刑犯とされたそうです。
刑場跡キリングフィールド
- トゥールスレンで処刑犯扱いされた人が送られた
- 約20,000人が殺された処刑場
- 子供も大人も、関係なかった
毎日毎日罪のない人が無惨な最期を迎えました。
カンボジアは決して裕福な国ではなく、銃弾の使用はもったいないとして、こん棒やくわなどで収容者を殴って殺したそうです。赤ちゃんが頭を叩きつけらていたという木は、キリングツリーといわれていて、ミサンガやお花などの多くのお供え物が木に掛けられています。
こんな地獄が、4年間も続いたなんて信じられません。
この大虐殺は、今もカンボジアに多くの影響を残しています。現地には、家族が親戚がいない人がたくさんいます。下の図は2019年のカンボジアの人口ピラミッドですが、明らかに40歳以上が少ないことがわかります。